当時それを口にするのは憚られたのだけど、かつての私は作文を書くのが得意な子どもだった。
みんな、作文を書く時間になると「思いつかねえよ」「原稿用紙が全然埋まらない」「400字って多い〜〜」ってぶうぶう不満を垂れまくる。だから、なんとなく言いづらくて黙っていた。でも、原稿用紙が埋まらなくて悩んだことは、ほんとうはぜんぜんなかった。
読書感想文も、作文よりはやりづらかったものの、なんとなく書いて、なんとなく出せていた。班でまわしてねといわれた班日記に関しては、1人で1日10ページ近く書いてしまうこともあった。書けば書くだけエンジンがかかって、いつまででも書いていることができる。今となっては羨ましい特技だけど、当時はそれを羨ましがらることもなければ、誇らしく思うこともほとんどなかった。
そんな昔のことを、先日急に思い出した。竹馬の友(っていうことばを使う機会、なかなかないから新鮮だな)から「あやこって、子どものときから書くの好きだったっけ?」と聞かれたのがきっかけだった。
友には「子どものころって、なんていうか、『作文書くの嫌だ〜』みたいな空気があったじゃん。だからあえて口には出さなかったけど、でも、書くのは当時から好きだったんだと思う」って答えた。
作文がなにかの賞に選ばれて、全校生徒の前で読む機会を得たことも、たしか2回ほどあったような気がする。本来であれば、誇らしく思うべきことなんだろう。でも、「ような気がする」と語尾につけてしまうくらい、記憶がおぼろげで、うれしい記憶という感じでは全然ない。当時の私は、自分の文章が評価を受けることにそこまで強い興味がなかったのだ。可愛げのない子どもだったのかもしれない。
でも、逆にとらえるなら、子どもの頃の私にとって書くことというのは、ただそこにある、とても基本的で根源的な営み以上でも以下でもないことだったのだろう。
だいぶ大人になってから、書くことでお金をもらう機会ができ、いまではすっかりその延長線にある仕事が本業になった。書いた文章に何かしらの価値がつく。その仕組みの内側にいることを、時々とても不思議に思う。でもその一方で、これが一番自然な筋道だったような気もしていて、だったらなんで新卒のとき、出版社に入ろうってならなかったのだろう、とも思う。
ところで、あらゆる文字表現のなかで、まだちゃんと腰を据えてやったことがないのが小説と短歌だ。詩は大学生のころにちょっと書いたことがある。急に思い立ってアメブロに怒涛の更新をして、でも途中で恥ずかしくなって閉鎖した。詳しくは覚えてないけど、あったかい缶コーヒーを飲み干すとあっというまに缶が冷たくなることと、人のしにぎわの体温低下ってもしかして近しいのかな、ということについて書いた記憶がある。たしか、祖父を見送ったときの記憶をもとにして書いていた。
小説に関しては、去年ふと思い立ったのだが、今年のうちに書いてみたいという気持ちがある。でもその一方で、短歌には適正がないような気がしている。
今日も、いまこの瞬間を歌にできたらいいなと思う瞬間があったけど、なんにも浮かばなかった。ひねれば浮かぶんだろうか。いや、でも。文字を増やすのは得意だけど、減らすのが苦手だ。そんなことを思いながら、ぼんやり書いていたら、400字程度で終わらすはずのこのブログが結構な量になっていた。
とはいえ、気持ちなんていくらでも変容するのだから、数年後の自分は歌を詠んでいるのかもしれない。短歌は、遠くにいるまだ見ぬ誰かと空気や温度を共有できる一方で、自分だけの暗号にも見えるところがいいなって思う。

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