母と私は10年会っていない。

母は、かつて私と居る時には、ほんとうに文字どおり、朝から晩まで愚痴をこぼし続けていた。こぼれるのを止めたくても、蓋がどこにも見当たらない。愚痴は主に父に関することだ。母と父は私が大学生になったころから別居を続けている。

10年前、愚痴の多さにいよいよ耐えられなくなった私は、やっとのことで思いついた。私が蓋になればいいのだ。だから「やめてほしい」と声に出してみた。だけど、母は「これぐらい黙って聞け」と言った。

その晩、なかなか眠れなくて、こたつに埋まりながらインターネットを彷徨った。 yahoo知恵袋や発言小町あたりをうろうろして、そこで「愚痴のゴミ箱」という言葉を知った。私のことだと思った。

すでに役割を与えられていた私が、蓋になれるわけは最初からなかったのだ。

翌朝早く、歩いたら30分かかる実家の最寄り駅まで自分の足で向かって東京へ帰った。駅の踏切に差し掛かったころ、「庭に咲いた花の写真を携帯の壁紙にしたいから方法を教えて」と母に言われていたことを思い出して、せめてそれくらいはしてから家を出てくればよかったと、その場にうずくまった。だけどもう戻れなかった。

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友人の家族に会ったり、家族に関する話を聞いたりするたび、「あ、こんなに違うんだ」と新鮮に驚いている。うちのなかで起きていたことは、ほかの人の家では起こっていないことのほうが多い。一方、ほかの家で起きていることは、私にとっては未知の話である。

家族同士ってそんな楽しい話ができるんだ。こちらが話を聞くばかりじゃなくて、話をちゃんと聞いてくれる親がこの世界にはたくさんいるんだ。

親になった友達が子に向けるまなざしも、「うちとは全然違う」と感じることがとても多い。ただ、すてきだと思うことはあっても、彼らの良好な関係性を疎ましいと思ったことは不思議とない。むしろ、ほかのうちが、私の家みたいじゃなくてよかったとホッとする。

こんなことを言うと、もしかすると、きれいごとをはいているように見えるかもしれない。だけど家族に恵まれなかった人のすべてが、よその家族を羨んでいるとも限らないのだ。いや、もしかすると、長期間距離を置いてみたから、こう思えているだけの可能性もじゅうぶんある。

ただ、もしも別の家族に生まれついていたら、私はいまの私にはなれてなかったんだろう、とは思う。私は、あの家の子どもに生まれたから、いまの思考回路を持つようになった。だからもう、別の家に生まれたかったとは思わない。思えなくなっているともいう。だけど、これはあくまでも「私」の話だ。

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ときどき、家族の息苦しさに悩む個人が、この世界にいったいどれだけいるんだろうと考える。きっと、私よりもずっと酷い仕打ちを受けている人がたくさんいるんじゃないか。私の比なんかじゃなく、絶望している人がいるのかもしれない。いや、ちがう。これは酷さの比較の話じゃない。

そもそも、私たちはもれなく生まれる場所を選べないのだ。これは全員に等しい人類のルールだ。だからこそ、生まれたあとの自由ができるかぎり保障されてる社会であってほしいとずっと思っている。虐待をする親のもとに生まれた子どもが、ちゃんと逃げることができるように。生まれた場所の不遇で、「人生もう全部詰んだ」と諦めてしまうことがないように。

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今年の2月に解散総選挙があった。はずかしながら、そのころになってはじめて、自民党がかつて作ったという憲法の改憲草案をじっくり見た。いろいろ衝撃はあったが、自分にとって最も意味がわからなかったのが24条だ。

「家族は、互いに助け合わなければならない」という一文の追加。

10年くらい前に作られた草案であるが、作られた当時、これに関わった人たちは、この条文を足そうと考えたらしい。

本気、なんだろうか。

ほんとうにほんとうに、ほんとうに、真面目に考えた結果がこれなのか。

とてもじゃないが、21世紀に生まれた言葉だなんて信じられない。というか、信じたくない。即座に「万が一こんなものを足されてしまったら、私はいまよりももっと社会を信じられなくなる」と思った。

これには、いくつも理由がある。まず、ひとつめには「家族は、互いに助け合わなければならない」と言われたら困ってしまう家族が必ずどこかにいること。ふたつめには、大きな力によって家族とのつながりを強制されることへの拒絶の気持ち。みっつめは、いまの日本国憲法にある個人を尊重する思想が、家族主義的なものへと塗り替えられてしまうことへの懸念と恐怖。

現24条は戦前の家父長制を明確に否定している。そこから80年近くの時が経って、やっと、ようやく憲法に現実が近づきつつあるのに、もし万が一、以前に戻ってしまうような変更の仕方がなされたらと思うと、不安でたまらない。

カルト宗教と関連があるんじゃないかとか、公助の支出を減らすつもりで入れた文章じゃないかとの疑念も聞こえてくる。また、同じく24条に「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される」という言葉も挿入したいらしいので、それを踏まえると、単身生活者の肩身が一層狭くなる可能性も否めない。問題は多層的だ。

だけど、そもそもの大前提として、私たちはもれなく全員、仲良い家族も、仲が悪い家族も、どっちでもない家族ももれなく「家族は助け合わなければならない」なんて、他者から無理強いされて、いいわけがない。ましてや憲法なのである。

家族が助け合うかどうかは、個人同士の選択の話であってほしい。生まれる環境は選べないのだから、固定の場所に押し込められてしまうような決まりごとなんてありえない。私は、個人が尊重されている世の中で暮らしたい。

私は現与党の改憲に反対している。そうしようと決めた理由はいくつもあるのだけど、現与党がかつて作成した改憲案が、私ら市民のほうを向いていない、というのはとても大きい。

よく言われることではあるけれど、憲法は国家権力を制御するものというのが私の認識だ。権力に好きにしてもらっていいわけがない。国民側の権利と自由が減らされそうであれば尚更だ。

だからあの草案のことを私は、言葉を選ばずに言えば、駄文だと思っている。前文からすでに明治時代以前にタイムスリップしているし、主語が国民から国家に変わっている。

今後作られる改憲案がこの内容をすべて踏襲するものではないにしても、かつてこれを作った党が主導になってつくるのだ。信用するにはあまりに距離がある。

なかでもやっぱり、自分の実感や家族観を踏まえると、24条への懸念は大きい。彼らは24条にこの家族条項を入れたがってくるんじゃないか、というのが私の読みだ。この読みは、できることならば当たらないでほしいと願っている。

毎日気がつくと改憲への不安に思いを巡らせていて、滅茶苦茶苦しくなるので、よっぽど嫌なんだなと思って書き出してみた。

難しいのが、これが、改憲という行動そのものへの完全な反対じゃないということだ。憲法は滅茶苦茶優れているけど80年近く前の長文だ。改善の余地がほんとうになんにも、微塵もないわけではないだろう。ただ、改憲に同意できるとしたら、それはあくまでも、国民に不利ではない内容であることが前提だ。

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政治のことはこれまであまり口にしてこなかったけど、それには、「そもそも私がくわしくない」という事実が紐づいていた。最近、理想論だと言われるのが悔しいので勉強を始めた。確かに世界情勢もそれに伴う安全保障も難しい。複雑な問題を複雑なまま考えられる胆力が欲しい。とはいえ、シンプルに嫌なものは嫌なので、その気持ちは引き続き大事にしたい。

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