近所に銭湯があると知ると、まずはとにかくうれしい。
だって、自分ちの風呂が庭の池だとしたら、銭湯は一級河川である。お湯がたくさんあって、たっぷりあって、右手と左手を真っ直ぐ広げても壁にどごんとぶつかるようなこともなく、なんなら日替わりで色の違うお風呂とかまで楽しめる。湯上がりには全力で扇風機が稼働してくれるし、ばっちり冷えた牛乳やビールを買う選択肢まである。
端的にいってユートピアだもの、あったらそりゃあもううれしい。
そう思っていた。そう思っていたのに、この4年くらいの間ずっと近所の銭湯に行けてなかった。旅先の銭湯には行けるんだけど、なんでだか近所だと気がすすまない。
この前まで住んでいた家の最寄駅付近には、深夜1時まで営業している銭湯があったのに、結局引越しをするまでの3年強、ただの一度も行くことがなかった。
行きたくないとは全然思ってなかった。むしろ「近々行こう」って思っていたのだ。だけど、近くを通るたんびに「また今度」って通りすぎる。それを30回くらいやっていた。この気持ちがどこからくるものなのか、全然掴みきれないまま、その土地をあとにして、いまの家に住んでから4か月が過ぎ、またもや同じ状況がうまれはじめていた。わけがわからない。
なんだけど、急になんとなく「今日なのでは」と思い、日曜の夕方に近所の銭湯を訪れた。肩が痛くて、あまりに痛いものだから「この肩を湯に浸してみよう」と閃いたのだ。
ゴールデンウィークの最初の週末だからなのか、近所の銭湯は混んでいた。小さい子ども連れが多くて賑やかで、その勢いに飛ばされて一瞬、引き返すなら今、という気持ちがよぎったのだけど突進した。
いろんな人がいた。全員、たぶん一回も会ったことのない人だ。ただひとつ、近所に住んでいる、というのが唯一最大の共通項である。もしかしたら数週間前にスーパーですれ違ったかもしれないけど記憶はもうない。だけど、みんなこのあたりに住んでいるのだ。
「近所」の概念ににゅっと距離を近づけた感じが妙にあった。そしてそれがちょっと「こわい」とも感じていた。
……なんで?
理由はまだ今でも完全には解明できてない。だが、私はもともと極端に近所付き合いを避ける傾向がある。近隣に住んでいる人に自分の存在を知られたくない。挨拶を交わしたくない。開かれた街に住んでいるのに、なるべく穴に潜ろうとしている。そんななか、銭湯は、あまりにも他者との物理的距離が近い。なぜそう考えるのかといえば、物理的に外界に晒す面積が多いからだ。
浴場での私たちは、どこまでも研ぎ澄まされた丸腰だ。浴場では誰も、当たり前のように武器なんぞは持たず、スマホを手に取ることもない。「他者は私を脅かさない。私は他者を脅かさない」の暗黙の了解がないことには成立しない空間が、ゆったりと、温かい湯気とともに存在している。
これは、よくよく考えるとものすごいことで、ものすごく恐ろしい。この結界をくぐると、穴の中に潜ろうとしていた自分が、近所の一員として立ち上がるような、妙な怖さがあるような、ないような。
結局なんだかよくわからないまま、天井を見上げてみたら、浴槽をあと3つくらい設置できそうな、だけどなんにもない空間があった。そこには、湯気しか辿り着けないらしい。
天井付近には大きな窓があって、空の青色が差し込んでいた。空か。空なのか。
空ともなると、さらに遠くて果てしない。湯気も私も、私以外の生命体もそうそう辿り着けない場所にある。なのに毎日見えてはいるから、妙に身近にも感じている。風呂場から空が見えるという状況を、なんだかいいなって感じるのは、もともと空に対する親しみがあるからなんだろう。理屈としてはわかる。でも、へんなの。なんだか変な感じである。
そのあと扇風機の強度について、知らない人と親しげに話してから、ベランダで生ビールを飲んだ。
この銭湯にはまた近いうちに訪れる気がする。そうやって通いつめていくうちに、「なぜだか近所の銭湯に行けなかった」記憶は薄れて、理由の解明もうやむやになるんだろうけど、でも、そういう時間があったことを忘れないでおきたいような気がしたので、とりあえず書いた。

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