去年まで住んでた家の近くには、カラオケに特化したチョコザップがあった。

カラオケに特化したチョコザップとは何なのか。初耳の人もいると思うので軽く説明しておくと、ひとつの空間をトレーニングマシーンとカラオケの個室とが共有しあっている、そんなチョコザップの店舗である。ときどきある形態らしい。個室は事前予約制でアプリから予約ができる仕組みになっている。

当時私が住んでいた場所付近には、3つのチョコザップがあったのだが、カラオケに特化したチョコザップはほかのどの店舗よりも大人気だった。その店舗にカラオケの個室は4つあったが、当日となると予約を取るのは至難の技。いかに街の人たちがカラオケに飢えているかがうかがえた。

ただ、正直、最初この店舗に出合ってすぐのうちは、腑に落ちない部分もあった。だって。ジムのアイデンティティーはどこ行ったのよ。この店舗は、いつでも混んでいるわりに、トレーニングマシーンで運動に励んでいる人がほぼいない。つまり、みんなの目的はほぼほぼカラオケ。それってもはや、サブスク制のカラオケじゃん。

だが、使ってみるうちにわかったことがある。

ここは、やっぱりカラオケとは違う。ジムのなかにあるカラオケと、カラオケ店のなかのカラオケは、決定的に違うのだ。音質とか、そういうことじゃなく、もっと大きな部分がぜんぜん違う。

ジムは、トレーニングマシーン周辺が閑散としていようとも、やっぱりジムなのである。マシーンがある以上は、いつ誰がトレーニングに来るかはわからない。そんななか、けっして厚いとはいえない壁に包まれてシャウトすることには、それ相応の度胸が伴うことを、使ってはじめて私は知ることとなる。「気にしません」という厚い鎧を被らないと、大きな声を出すことに妙に緊張感がある。

カラオケ店の場合であれば、全員の目的が間違いなくカラオケなので、もうちょっと開放的になれるような気がした。

とはいえこの街の人たちはカラオケに飢えた民。そんな緊張感はすでにのりこなしずみで、よどみなく、心からのシャウトに臆せず励んでいる人が結構な数いらっしゃって、みんなもう、なにかを「超えてる」感じがあった。この店にいると、右から左から、ひっきりなしに誰かの野太い歌声が聞こえてくる。まるで魂が叫んでいるかのうように威勢がいい。

つられて私もボリュームを上げる。叫ぶ。叫ぶ。何度も叫ぶ。しゃくりあげる。

そうしているうちになんだか、自分のなかに沈殿していた黒いものが、しゅわしゅわと放出されて、空気のなかに散っていく。そして訪れる、妙な居心地のよさ。声を出すことにどんどんどんどん躊躇がなくなる。立ち上がって、体でリズムをとりたくもなってくる。あ、もしかすると、これが「超える」の感覚ではないか。

おこがましいかもしれないが、私の叫びもまた、隣人に心強さを灯しているような、そんな錯覚を覚えて誇らしい気持ちにすらなる。

なんだろう、この謎の一体感。

あの場所で歌うことをたしなむ彼らのこと、もう勝手に同士だと思い込んでしまっている。

あの一体感を感じたくて、もう引っ越したあとなのに、またあの街のチョコザップにときどき行きたくなってしまうくらい。

それにあの街、四文屋もあるんですよ。

関連記事

家族は助け合わなければならないなんて、言われたくないのだ

短冊に「世界平和」と書くことに真面目になりたい

応援されたら頑張らない『タローマン』がすき

映画『国宝』を観て思う「わかりにくい」を味わいたさ

犬と会える夜はめずらしい夜

猛暑すぎるけれど、まだ溶けない

コメント

コメントを返信する

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です