一家に一台、どころではなく、ひとり一台クルマを所持しているといわれる県に産まれたけど、運転免許をとらずにここまできた。理由は3つある。
ひとつめは、母親に「東京で暮らすならば免許はいらん。必要になったときに取ればいい」と熱く強く、粘り強くプレゼンされたこと。
母はペーパー歴10年のブランクを経て運転を再開した時、たいそう苦労したそうで、それが大きなトラウマになっていた。わたしはどちらかというと、母の主張を従順に聞く娘ではなかったが、この件に関しては「たしかにそうかも」と納得して、それ以上思いをめぐらすことがなかった。
ふたつめは、地元に帰る気がさっぱりないので、だったら免許いらないかなと思ったこと。
みっつめは、自分と世界の平和を願うのなら、やめておいたほうがよいと思ったこと。
おそらく自分には、クルマの運転のセンスが致命的にないのではと考えていたのだ。というのも、遊園地のゴーカートに乗ったとき、クルマを直進させようとするたびに、右や左にゴンゴンぶつかりつづけたから。世界の平和を願うなら、わたしにできることのダントツ第1位は「クルマに乗らない」かもしれない。いつしかそう考えるようになっていた。
そしていつのまにか、東京で過ごした年数は地元で過ごした年数をこえ、迷路みたいな東京の鉄道網で迷子になることはめっきり減り、新宿や大手町など、ダンジョンと呼ばれるような駅の見取り図も多少理解できるようになってきた。
この街に住み続けるなら、まじで免許がなくても大丈夫そうだ。よし。だったらこのまま一生クルマを運転する日が来なくても、問題ないのではないのでは。そう思いはじめていた。
のだが。
このまえ取材でスーパーマーケットをまわったときのことだ。ピザを買うために、シェアサイクルを借りて小平周辺をうろうろしていたら、ピザの箱がとんでもなく運びにくいことに気がついた。

まず、どう考えても自転車のカゴに入れたら、箱の水平は絶望的なのだ。チーズは雪崩をおこすだろう。困る。そんなの困る。なんとしても避けなくてはいけない事態だ。でも、ならばと片手で持ちながら自転車を漕ごうとしたら、今度はやたらにふらふらする。うっかりすると自転車が揺れそうになる。
ピザの水平を保つか、自転車の垂直を保つかの戦いだ。もう、箱のサイズを変える以外に方法が思いつかない。行き詰まり。八方塞がり。もうだめだ。むり。むりむりむり。
そう思ったとき、はじめてわたしの脳裏に「クルマだったら」という思考が生まれた。クルマだったら。クルマの後部座席だったらきっと、水平なままでピザを運べる気がする。
それに。クルマだったら、スーパーからスーパーへ移動するのもらくちんそうだ。大荷物になっても、手がちぎれそうになるなんてことがない。悠々自適。いまのこの苦しさと比べたら貴族だ。
1日のうちにどれだけの数のスーパーを回れるのかも格段に変わってくるだろう。いままでは地方に行ったときとかも、徒歩で周辺のスーパーを2、3軒回ってはくたくたになっていたけど、クルマだったら、これまでの5倍くらいの数のスーパーを回れる可能性もありそうだ。
知らない土地を徒歩でうろうろすると、細かい土地の味わいに気がつくことは多くて、それなりに楽しかったけど、40歳になったいま、残りの人生でどれだけの数のスーパーを回れるのかと考えると、クルマの力を借りたほうが良さそうだぞとも思う。
そんなことを思っていた矢先、家庭用ゲーム機を初体験する機会に恵まれて、任天堂のUIに優しく迎え入れてもらったため、初体験への敷居がぐんと低くなった。
2022年の目標は「運転免許をとる」にした。なにとぞこわい教官がいないところで取りたい。そう思ってGoogleのレビューが比較的平和そうな教習所に今春、合宿に行くことを決めた。
がんばろう。
