普段着ている洋服の何十倍もの値段、にも関わらず今日しか着ないであろう深緑の振袖を着て、朝早くから隣の市町村までいそいそと出かけ、美容室でおびただしい数のピンを刺されながらモコモコの頭に仕上げてもらい、新成人たちでごったがえす市民会館のホールのなかで延々と述べられている偉い人のスピーチをたいして聞くこともなく、久しぶりに会う同級生たちと写ルンですで写真を撮りまくり、その帰り道、調子にのってずっこけて、着物の下に装着していた肌襦袢に血の色がかすれ、それを母親に怒られつつデパートのなかのパン屋でフレンチトーストを食べ、夜になるとともに中学の同級生たちと飲み屋に集合してお酒をあおり、その後、隣町に移動して高校の同級生と、その元バイト先の人らとカラオケでわあわあ歌ったりしているうちに夜が暮れていた。

一緒に市民会館まで行った友は臨月間際で、当時お腹のなかにいたこどもはその後、すくすく育ち、数年前に大学を卒業したという。飼っていた犬たちは健在で実家の庭でうろうろしていた。犬のそばにいるとき、大学の友から電話が来たので出たら、「えっ、今日って成人式なのか!」と言われて、今日という日の重さは人によって全然違うものだったんだと理解した。帰り道、実家から東京のアパートに戻る快速アーバンのなかで、溜まりに溜まった大学のレポート課題を書き進めたら、乗車時間2時間の間に数本のレポートが仕上がった。たぶんあの日、私は人生でいちばん筆が早かった。

……と、いま、ふんわり思い出しただけでも、ずいぶんと細かいところまで思い出せた。その次の日や、その次の次の日のことなんぞ、もうなにも覚えてないのに、この日のことは、こんなにもちゃんと細かい。「成人式」というのは、私にとって相当特別な日だったんだろうと思う。

そういえば、数年に1回のペースでそういう「特別な日」というのは存在する。こういう日のことは、たいしてどこにも書き留めるとかをしなくても、そこそこ思い返すことができたりする。そういう「思い返せる」ような思い出を抱えていられるように、特別な日は存在しているし、特別な日を作ろうと頑張るのかもしれないとすら思う。

一方で、その前後がさっぱり思い出せないことも地味に気になる。特別な日以外の記憶の儚さたるや。その、あっというまに忘れていってしまう儚い記憶を繋ぎ止めておくために、日記を書いているんだろうなぁと思うことがある。でも、でも、やっぱりどうしたって24時間の記憶をなにもかも、保存しておくことはできないので、私たちの生身の生きざまこそが、時間が経てば儚く消えてしまうInstagramのストーリーズそのままだ。

自分にめっちゃ大容量のハードディスクをつけて、記憶を全部そこに保存しておけたらいいのに。でも、それをやってしまうと、過去を反芻する楽しみが増えすぎて、現在と未来に集中できなくなるような気もする。いまくらいがちょうどいいのだろうか。

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