私の毎日はそこそこ充実している一方で、そうでもない時もそれ相応にある。その全容を知る、この世でただひとりの人間は、ほかでもない自分自身だ。逆にいうと、自分以外は全容の1割も知らないのかもしれない。

他者にとっては、私自身の自己開示が、私の充実度を知るうえでの主たる情報源だ。そうなるとある意味私の充実は、私自身の手によって情報操作することもできるのだろう。

だからこそ、充実感を外に晒す度合いを人工的にコントロールするのはいやだなぁとよく考える。「人にみせるための自分」をそこまで綿密に計画したくもない。

そんなこんなで「いや」と「したくない」ががっちりタッグを組んだ結果、できうるかぎり、ありのままを開示することが消去法で自分の最適解となり、アプトプットの過半数を陽的な要素が占めるようになっている気がする。

なぜかといえば、私はどちらかというと明るい性格なのである。両親はそんなに明るくないのでルーツはわからないのだが、怒りをいつまでも同じ温度で保管していられず、辛かったことは喉元すぎるとどうでもよくなりやすく、なのに、よかったことは延々ずっと覚えていられる。得といえば得だけど、底が浅そうと思われる危険もある。

とはいえ、自分としては、この状態がいちばん風通しがよくてらく。なにしろ無理がない。公私すべての場所において、多くの人の前で取り繕わないでいられることを最近では、自分の特技かもしれないとすら思うようになりつつある。

一方で、暗がりでしか救えないものがあることも知っている。自分がふとした瞬間に放つ電光が、人のことを傷つけるかもしれない可能性についてもなんとなくではあるが、理解ができる。となると、光度の調整を適宜行なったほうがいいのかな、と考えたりもするのだけど、でも、上述したとおり、人工的なコントロールは控えたい気持ちが強い。

正直、ここにはいくばくかの葛藤がある。罪悪感にもちょっと似ている。悪いことをしているわけじゃないはずなのに、なんというのだろう、感情をもっと均したほうがいいのかも、と考えることがある。

でも、そうしているうちに最近、私には「充実を恐れないこと」が必要なのではないか、と思うようになった。どんなに葛藤があろうとも、充実そのものに罪はないのだ。充実は、本来であれば愛すべき、尊くありがたいことなのである。

充実を競争させることに興味はないし、どうせならばみんなで一緒にもっともっと、充実できたらいいなぁとも思ったりする。もしかしたら、こうやって思うことすら、誰かにとっては圧力になりうるのかもしれないのだけど。それでも、もうそろそろ、大きいキャッチャーミットをしっかり手に持って、飛んできた充実を心して、全力で受け取れるようになってもいいような気がしている。あと、もう腰痛にはなりたくないので、適度な運動とほどよい栄養摂取をがんばっていきたい。

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