このまえ冊子を作った。そのとき、気がついたことを忘れないうちに言葉にしておきたい。
自分の場合、母に対する気持ちを昇華に向かわせるとしたら、すくなくとも現時点では、ノンフィクションでは難しいという考えにいたった。そこで考え始めたのが小説、すなわちフィクションである。
ノンフィクションの場合、ざっと概要までは書けるとしても、細部がぜんぜん書けないのだ。書けないというか、書き控えたいと感じる。
これまでも、広く誰もが閲覧可能な場所、つまりこういう場所に詳細に文章として書くことはなるべく控えてきた。ただし、隠している、とは明確な違いがあって、友人と話をするなかでは、ぜんぜんずっとあけすけに話している。消えていく言葉や、人の目に触れない場所に限定して、立ち上がらせてはいたのである。とてもじゃないけど、ひとりでは抱えきることができなかったのだ。
残さないようにしているのは、いまのところ母は生きていて、私も生きているので、いずれ関係性が変わる可能性もあると、まだどこかで期待をしているからだ。過度に期待を持つのは危険だけど、その可能性がゼロではない以上、現時点での気持ちをありのまま、デジタルタトゥー的なものとして残してしまうと、あとで後悔しそうでこわいのである。
私の場合、UMAの名前で顔を出してライターの仕事をしているのを親戚や友人知人が認識しているので、ネットにいる私が実質匿名性を持っていない点にも影響を受けている。
でも、本当はずっと書きたい気持ちがあった。なので、母とのことを書ける範囲で書いてみる。抽象的な、概念的な書き方にはなると思うのだけど。
母と8年くらい会っていない。自分の心身の健康を最優先した結果である。
母と私は性質がまったく違っていて、端的に言ってしまえば気が合わない。少なくとも私はそう理解している。理解しているというか、いろいろ考えたすえ、この言い方がいちばん適切であろうと一時的にジャッジした。母は、私を「個」としてではなく「自分から生まれた子ども」という位置付けで見ていることのほうが、圧倒的に多かったように思う。それに関して、母なりの葛藤はあったのか、なかったのか、私にはわからない。
会わなくなったことには明確なきっかけがある。ざっくり言ってしまえば、私がしびれをきらしたのだ。なお、会わなくなる前からも関係はあまりよいとはいえなかった。
とはいえ、一生会わないでいるつもりはなくて、母は母なりに一生懸命やっていたのだと理解はしている。そもそも、私は人を悪くいうことが得意じゃない。黒い感情を自分の体内に置いておくと自己嫌悪で吐きそうになるという、ある種の潔癖性を持っている。だから、あんまりねちねち言ってしまうと、私のほうが罪悪感で潰れてしまうのだ。
ただ、自分の体験をとおして、家庭が必ずしも安住の地ではないことを熟知したものだから「家族っていいものだよね」という思想に強制的に巻き取られそうになると、いやいや待て、必ずしもじゃないからな、と牙をむきたくなる習性がある。
もちろん家族仲がいいのはいいことだ。昔はともかく、いま現時点で仲のいい家族を見て、うらやましいなぁ、いいなぁ、素敵だなぁと微笑ましく思うことはあっても、悔しさで引きちぎれそうになるようなことはない。人は人。私は私。自分でいうのもなんだが、嫉妬心は薄いほうなのである。(ただ、この性質は、自分が潰れないために獲得した生きるすべなのかもしれないとも疑っている)
とはいえ、悔しさというかたちではあぶりだされなくとも、別のかたちではずっと、フラストレーションを表に出し続けているかもしれない。
それについてはいままさに考えを巡らせている最中なのだけれども、私はどうやら、人は人で、他者はどこまでも他者で、私とあなたは別の人間である、と言いたい気持ちがものすごく強いらしい。年々増強されている。冊子を書きながらもあらためて思った部分だ。
これは、個性の差異とかという話ではなくて、もともとある境界線についての訴えである。巷で自他境界線といわれるようなものだ。
若いころはやわやわになりがちだった境界線は、ちょっとずつ工事を繰り返しながら、年々はっきりとした線になっている。でも、揺るぎなく100年持つような立派なマンションみたいな精度ではないから、全幅の信用を置くにはいたっていない。
だから、特に最近は、黄色の信号が点滅した時点で必死に逃げるようにしている。黄色の信号が点滅するいちばんは、「あ、いま私は操作されそうになっている」と感じたときだ。
人類のなかには、「他人を意のままにしたい」と思っている人が一定数いるらしいのである。いや、そこまで明確な悪意はなくとも、むしろ善意のもとであっても、他者に変容をもたらそうという意思のもとで、起こされたアクションというのがたくさんある。業務上や便宜上、自衛のためなどのさまざま理由のもと、やむをえずやっているものもあるはずだ。自分自身、仕事において、なにかしらの大義名分のもと、強制力のある言葉を使ってしまっているのだろうと思うことがある。
すべて拒絶してしまうと、生活自体がままならなくなるので、折り合いをつける必要があると考えている。でも、ふと、「この操作からは逃げたい」と感じることがどうしてもある。こういった自分の性質を感じるたび、それは動物として、正しい防衛反応であると思いつつも、過度に警戒しすぎていないか、と不安も覚える。人との交流を過度に警戒しすぎているような気もしている。
一説によれば、日本の人口の8割はアダルトチルドレンらしい。アダルトチルドレンとは、ざっくり言ってしまえば、子どものころに家庭内で傷つき、そのまま大人になった人のことである。
8割。ソースはどこなんだろう。ざっくり調べてみたかぎりでは、どうやら文献があるようだったけど、それでもずいぶんとばかでかい数字である。率直にいってしまうと、うのみにするのがこわい数字だ。
とはいえ、どの家族においても、その家族で育ったからこそ備わった性質というのは、それ相応にあるのかもしれない。
少なくとも私は、この家族で育ったからこういう性質になった、と思い当たるふしがいくつかある。悪い面もあるけど、意外とそればかりでもないのが幸いだ。
母に対する気持ちの諸々は、自分のなかで、霧を被って見えなくなるようなことはなくて、もちろん消えることもない。楽しいことをしていても、はしゃいでいても、同時進行でずっと抱えているような気がしている。
以前、母のことを相談しておきたくて、カウンセリングに数か月だけ通った。そのときカウンセラーさんから聞いた話のなかには、自分を守るための具体的な方法もあった。ことが起きたとき、実際にどこまで適用できるものなのかは未知だけど、だいぶお守りにはなっている。

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